房総歴史の小部屋

 房総の歴史街道


   房総往還 


   その1


       成田街道の船橋宿から江戸湾沿いに南へ延びる道が房総往還。
      下総から上総、さらに厳しい国境を越えて、安房の館山まで続く街道だ。
      房総の諸大名は、参勤交代の折りには必ずこの道を利用した。


      ところで、関八州(現在の関東地方)に置かれた譜代大名は、
      1年ごとではなく半年ごとに江戸と国元を行き来する参勤交代だった。
      例えば、上総・久留里藩の黒田氏の場合、12月に参府し8月に御暇と決まっていた。


      また、参勤交代をしないで常に江戸屋敷で暮らす大名も存在した。
      これを常府大名と呼び、その代表格は水戸徳川家で、
      房総でも1万石クラスの小藩の藩主がそんな大名だった。
      上総・一宮藩の加納氏は、陣屋を一宮に構えてはいたが、常府大名であった。


      さて、船橋大神宮で房総往還は神社の南を回って海岸へと緩やかに下って行く。
      そして、京成線の踏切を渡り国道14号へ合流し、しばらくはそのルートで千葉を目指す。


      今、遠浅の海は幅2キロほどで埋め立てられ、街道からは海辺を望むこともできない。
      かつては、波穏やかな江戸湾の彼方に富士山が美しく浮かんで見えたことだろう。


      すぐに船橋市から習志野市に入り、京成の谷津駅が見えてくる。
      戦後しばらくの間は遊園地があり、よく訪れたものだった。
      今は、ラムサール条約に登録された谷津干潟が有名だ。
      街道から右折し駅前商店街を歩けば、陸地と高速道路に囲まれた干潟が姿を見せ、
      羽を休める野鳥を見ることができる。


      再び国道を行くが、さすがに幹線道路だけにクルマの轟音と排気ガスが半端ではない。
      この辺りは、あえて歩くこともないかも知れない。
      千葉市の幕張まで、京成電車で一気に移動した方が良いのかも…。


      特にクルマに注意する場所は、京葉道路の幕張インターの所で、
      歩道を歩いているつもりが、突然、クルマの進入路を横断するはめになる。
      これは10年ほど前の経験だが、2008年の今、少しは状況は改善されたのだろうか。
      今も、冷や汗をかいた記憶だけが蘇ってくるのだ。


      冷や冷やしながらも、千葉市の幕張に入る。


      房総往還は国道から左へ分かれ、緩く坂道を上り住宅地へ延びて行く。
      江戸時代には、幕張は馬加村(まくわりむら)と呼ばれ宿場でもあった。
      そして、江戸中期の享保の改革時、この地で青木昆陽が甘藷(サツマイモ)の試作に成功。
      京成の幕張駅近くには、彼を祭った昆陽神社が建立されている。


      実は、この辺りは江戸町奉行与力給地だったため、大岡越前守との関係から畑が使われたようだ。
      こうして、サツマイモのお陰で多くの人々が飢饉で命を救われることになり、
      また芋を原料とするデンプンは下総の特産品ともなった。
      神社の向かいには、甘藷試作地の記念碑も建っている。


      街道は、花見川を渡り検見川の商店街を抜け、
      住宅地を通り東関道下をくぐって再び国道14号へ合流。
      稲毛へと向かう。


      前方左手に浅間神社の森が見えてくれば稲毛だ。
      国道上り車線の脇には、今でも大きな赤い鳥居が建っているが、
      埋め立て前は波に洗われていた。
      7月の祭りのときは、鳥居まで舟橋が架けられたものだった。
      その祭りでは、キリギリスを虫籠に入れて売っていたように記憶している。


      浅間神社の一帯は、明治以降には保養地として人気の地だった。
      1888年(明治21)に県内初の海水浴場が開かれ、
      旅館や別荘が建ち、多くの文学者も訪れた。
      今も松林が広がり、保養地の面影が残っている。
      そして、松林の一角に「日本のワイン王」と呼ばれた神谷伝兵衛の洋風別荘が
      『市民ギャラリー・いなげ』として公開されている。


      また神社の境内に隣接し建つ和風の民家は、
      愛新覚羅溥傑夫婦が新婚の半年ほどを暮らした家で、
      ここも一般公開されている。
      溥傑は、ラストエンペラーこと清朝最後の皇帝・溥儀の実弟だ。


      稲毛から海沿いを登戸へ向かう国道ルートは、明治に入ってから
      千葉刑務所の囚人を動員して開かれた道だという。
      この地域は、低い丘陵が海辺に迫っているため、街道は内陸部を大きく迂回し、
      千葉の中心部へと延びている。


      浅間神社わきから坂道を上り、京成線を渡りJR線の高架下をくぐって住宅街を縫い穴川へ。
      そこからは、国道16号のルートで南下する。
      頭上を千葉都市モノレールの軌道が延び、時折スルスルと懸垂型モノレールが行き交う。


      やがて、モノレールと分かれてJR東千葉駅近くの椿森陸橋で線路を越えると、
      緩やかに台地を下り千葉神社前へ出る。


      さらに本町通りを進み大和橋で都川を渡れば、左手に突き出す台地は亥鼻山だ。
      平安末期、千葉常重がここに城を築いて以来、千葉は中世の城下町として繁栄した。
      一説では、鎌倉時代には鎌倉に次ぐ賑わいを見せたとか。
      その中心が、今歩いてきた本町通りだった。


      しかし、室町中期の1455年(康正元)、一族の反乱で千葉城は落城。
      千葉氏の本拠地は本佐倉城(現、酒々井町)へ移り、千葉は寂しい寒村となった。


      亥鼻山の裾には、伝説の『お茶の水』が残され、今も水が流れている。
      また、城山へ上れば、天守閣造りの千葉市立郷土博物館があり、
      千葉一族の歴史が詳しく展示されてもいる。


      城山を下り県庁裏手へ出る。
      すると、羽衣公園が広がり、その一角に『羽衣の松』がある。
      全国に残る天女の羽衣伝説が、この地にも語り継がれているわけだ。


      さて、JR本千葉駅を過ぎると、都川の畔へ出る。
      この地区は寒川で、江戸時代になると佐倉藩の御用港として賑わった場所だ。
      川沿いに御蔵屋敷が並び年貢米や木炭が江戸へと積み出された。
      また、上流の大和橋際には、問屋や商店が軒を連ねたそうだ。


      ここから、房総往還は小湊バスの走るルートで南下して行く。


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