城下町・久留里

     上総武田氏の拠点だった久留里は、里見義尭、義弘と2代に渡り安房里見氏の本拠地となった。
     その強固な山城が、今も姿を残し、本丸には小さな天守閣が再建されてもいる。
     
     江戸入りした徳川家康は、久留里に3万石で大須賀忠政を置いた。
     まだ9歳と若い城主を補佐したのは、付家老の森川出羽守で、
     「久留里新町、誰たてた。それは、森川出羽さまが、たてもたてたよ良くたてた。中をたるめて舟なりに」と
     地元百姓の唐臼ひき歌で謳われたという。
     
     忠政は徳川四天王の一人・榊原康政の嫡男として生まれ、生母は家康の重臣・大須賀康高の娘であった。
     しかし、康高が跡継ぎの無いまま死去したため、大須賀の家名を存続するため忠政が養子となった。
     
     この大須賀氏は千葉一族と言われ、鎌倉時代の1247年(宝治元)6月の宝治合戦で三浦氏に加担し敗れ、
     下野へ逃れて、後に甲斐から三河へ移り土着。
     家康の家臣団に組み込まれたようだ。
     
     1601年(慶長6)、忠政は6万石に加増され遠江・横須賀(現、掛川市)へ転封となり、
     久留里へは土屋忠直が2万石に加増され翌年に入った。
     
     土屋忠直は、武田二十四将の一人・土屋昌恒の子で、父が天目山で討ち死にしたため、母に連れられ駿河へ逃れた。
     
     そして、興津の清見寺(現、静岡市清水区)で小坊主をしていた1588年(天正16)、
     鷹狩りの帰路立ち寄った家康にお茶を運んだことで運命が激変。
     
     11歳の小坊主を見た家康は、「誰の子か」と住職に尋ね、昌恒の遺児と知った。
     家康は直ちに還俗させ、阿茶局の養子とし、翌年には秀忠の近習として仕えさせた。
     
     忠直の死後は、嫡男の利直が相続するが、その時代に新井白石の父・正済が仕え大目付を勤めていた。
     息子の白石も、幼いが賢いため利直に可愛がられたという。
     
     しかし利直の死後、直樹が藩主となると、新井父子は久留里を去ることになった。
     さて、直樹だが、藩主就任からわずか4年後の1679年(延宝7)に狂気の沙汰ありとして改易された。
    
     廃藩となり城も破却され、藩領の多くは、上野・前橋藩主の酒井忠清の加増地となった。
     
     一方、改易された土屋氏だが、先祖の働きが考慮され、直樹の嫡男・逵直が3千石の旗本として家名存続を許された。
     赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、高提灯をずらりと並べ吉良邸の庭を明るく照らしたお隣さんが逵直で、
     多くの人々に旗本の男気を感じさせた。
     
     久留里には、その後、1742年(寛保2)、黒田直純が3万石で上野・沼田から国替えで移り、
     5千両を与えられ城を再建。
     明治維新まで黒田氏の支配が続いた。
     
     久留里城は、険しい山上に本丸天守閣を構える山城だ。
     現在、山裾の駐車場から舗装路が延びているが、その脇には草むらを縫う急傾斜の昔からの登城道が残されている。
     
     また、尾根筋を人工的に切った堀切の名残が城山の彼方此方で確認することが可能。
     薬師曲輪に建つ君津市立久留里城址資料館から本丸へ向かう路傍に、『男井戸・女井戸』が残り
     小さな池に水をたたえている。

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