城下町・大多喜

    戦国時代、上総武田氏が拠点とし、その後は安房里見氏の協力者・正木氏が攻略。
    ところが、1590年(天正18)の小田原攻めで遅参し惣無事令違反とされた里見義康は、安房一国のみの領有とされる。
    上総領は全て、江戸入りした徳川家康の領地となったのだ。
    
    江戸城に入った家康は、城の修復などは後回しにし、急いで家臣団の配置を行った。
    そうして、大多喜に10万石で配置されたのが、徳川四天王の一人、猛将として知られた本多忠勝であった。
    
    本多忠勝は、戦国時代の大多喜城から南へ数百メートルの台地上に新しい城を築城した。
    舌状に東へ突き出した台地の突端を本丸とし、二の丸や三の丸が広がる。
    台地下が城下町となり、周囲を夷隅川が南から東を巻くように深い谷を刻み流れ、天然の外堀を構築している。
    川沿いに点々と配置されているのが、防御拠点となる寺だ。
   
    忠勝が築城に際し想定した仮想敵国は、安房館山を本拠地にした里見義康であった。
    このとき、同じように江戸湾沿いの佐貫、山中の久留里にも徳川家臣団が配置されている。
    
    つまり、安房里見氏が上総領を支配した拠点の城が、
    そのままそっくり里見氏を安房へ封じ込める防御ラインとして使われたわけだ。
    
    佐貫、久留里、大多喜を地図で見れば、ほぼ東西一直線に並んでいることがわかる。
    
    本多忠勝は、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後に、伊勢・桑名 へ国替えとなり、
    大多喜城には次男の本多忠朝が大名として5万石で入った。
    
    忠勝は、論功行賞として当然加増される分を受け取らず、次男を新規大名として取り立ててもらったのだろう。
    忠朝が藩主のときに、領内の海岸にスペイン船が漂着。
    前ルソン総督のドン・ロドリゴが上陸し、大多喜城に迎えられている。
   
    また、大坂攻めの直前、里見忠義の実質改易に際しては、忠朝は軍勢を率いて安房へ入り、館山城破却を行った。
    大坂城の豊臣攻めにも出陣した忠朝は、冬の陣で不満を洩らして家康に叱責されたとも言われ、
    続く夏の陣で覚悟の壮絶な戦死を遂げた。
   
    安房里見氏が消えたため、軍事的な重要性が低下した大多喜城には、石高も低い大名が入ることになる。
    江戸後期、松平(大河内)氏支配の1842年(天保13)に、天守閣を焼失してしまうが、
    財政難もあり再建されることなく明治を迎えている。

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