房総の主な伝説
大友皇子の伝説
天智天皇が近江大津宮で亡くなった翌年の672年6月、壬申の乱が勃発した。
弟・大海人皇子と天皇の子・大友皇子が、皇位継承を巡って争ったのだ。
大友皇子は自害し、勝利した大海人皇子は即位し天武天皇となった。
死んだはずの大友皇子。しかし、彼が生き延びて海路上総へ辿り着き、御所を構えた伝説が残る。
君津市の小櫃川中流の山裾に白山神社が建つ。ここが、大友皇子が御所を構えた『小川の御所』跡といわれる。
天武天皇は大友皇子の存在を許さず、直ちに討伐軍を派遣してきた。
御所では、激しい戦いが繰り広げられ、御所を脱出した皇子も遂に自害したという。
また、戦闘開始前に御所を抜け出た女官12人も、御所の方角に上がる火の手を見て、自害して果てたそうだ。
大友皇子の息子・福王も、海路房総へ逃れてきた。
船が西風に吹かれて漂着したのは、袖ケ浦市の海岸。
袖ケ浦市の旧奈良輪宿には、福王を祭った福王神社がある。
妃の耳面刀自媛は、18人の従者と共に九十九里浜に上陸。
匝瑳市と旭市に、関連した伝説地が残っている。
さらには、大友皇子を攻撃した側の高市皇子(天武天皇の第一皇子)が上総の山里に下った、という伝説まである。
そして、実に不思議なことに、それぞれの伝説は、つながって一連のストーリーに仕立てられてはいない。
それぞれが、まったく無関係に語り継がれてきました。
しかし、そこにむしろ妙に惹かれる感じがするのです。