房総の主な伝説


平将門の伝説



         平将門が登場したのは、10世紀。
         桓武天皇の曾孫である高望王は、889年(寛平元)に平姓を与えられて臣籍に下り、上総介として上総へ移り住んだ。
         そして、土地の有力者と婚姻関係を結びながら、子孫は各地で勢力を拡大した。
        
         高望の子の平良将が、将門の父親である。ただし、将門が何年に何処で生まれたのかは不明。
         そのため、色々な伝説が各地で誕生するわけだ。
         
         まさかとは思うのだが、東金市に将門誕生地との伝説がある。しかも、母親が桔梗前という大胆な筋書きだ。
         
         桔梗前の妊娠を知った夫の平良将は、占師の「生まれた男子は、成長して反逆者となる」との占いに驚き、
         桔梗前を小舟に乗せて川へ流した。
         小舟は川を流れ下り、やがて海へ出て漂着したのが、渚が内陸まで入り組んでいた当時の東金市の海岸。
         そして、間もなく将門誕生となる。実に、ドラマチックな話だ。
         
         将門の生きた時代、各地の有力者は荒れ地を開墾しては私有地化し、その土地を守るため自らが武装し、武士が生まれた。
         税を逃れるために、土地を天皇家や有力貴族、さらに大きな寺や神社に寄進する形の荘園が生まれた。
         
         貴族から見れば、武士は力は強いが身分の低い番犬のような存在でしかなかった。
         
         武士の子として育った将門も、成長すると都へ上り左大臣・藤原忠平に10年ほど仕えている。
         父の死を知り帰郷した将門は、領地が伯父たちに奪われている事実を知った。
         こうして、将門の乱が始まる。
         
         935年(承平5)、伯父・国香を討ち、さらに、伯父・良兼との争いに拡大する。
         乱の前半は、一族内の領地争い的な私闘だったが、将門の力量は武士たちに高く評価されていった。
         そして、各地で国司と対立する武士の調停役として期待される立場となった。だが、調停がこじれた場合は戦闘が始まる。
         
         こうして、939年(天慶2)11月に、将門は常陸国府攻略という朝廷への反乱に出てしまった。
         ここに、将門は自ら新皇を名乗り、朝廷と戦う覚悟を決めたようだ。
        
         一方の朝廷は、940年(天慶3)2月に藤原忠文を征東大将軍として鎮圧の軍勢を派遣。
         また、それより早く、仏教の力による調伏も考え、寛朝僧正に不動明王を奉持して海路東国へ下らせる。
         
         寛朝は九十九里の尾垂ケ浜に上陸し、陸路をたどり公津ケ原へ進むと、21日間調伏の護摩を行った。
         そ の満願の日、将門は藤原秀郷に討たれた。
         征東大将軍・藤原忠文の軍勢が到着する前に乱は鎮圧されたわけだ。
         
         また、寛朝僧正は不動明王のお告げに従い、成田山を開いたという。
         将門の反乱拠点は、下総国猿島郡岩井(現、茨城県坂東市)といわれる。
         現在の利根川流域は、広大な水辺が広がっていたことだろう。
         千葉県側にも、多くの伝説地が残り、一風変わった習わしがある。
         将門を裏切った桔梗前を嫌うため、桔梗は植えず、着物の模様にさえ使わない。
         そして、成田山へのお参りはしない。
        
         平将門は反乱者ではあったが、武士たちが権力を握る頃には、彼の評価は一気に高くなった。
         同じ桓武平氏の千葉氏は、祖である高望の子・良文が、甥である将門の養子となって千葉氏が始まる、
         という話も作り上げた。
  
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