房総歴史の小部屋

 房総の歴史街道


   多古街道


   その1


     成田街道の酒々井宿から東へ分かれ、城下町・多古へ延びる多古街道。
     多古藩主・松平(久松)氏の参勤交代路でもあった。
     また、多古から先は、佐原、小見川、さらに銚子とも結ばれていた。


     街道は、佐倉牧という広大な放牧場を行く道でもあった。
     戦国時代、下総には小金牧と佐倉牧、安房に嶺岡牧があった。
     下総の牧は千葉一族の支配下で、小田原北条氏へ軍馬を提供する貴重なものだった。
     一方の嶺岡牧は、安房里見氏にとって欠かせない存在だ。


     江戸幕府成立後は、軍事や輸送に大切な馬の飼育のため、
     幕府は小金の5牧と佐倉の7牧、さらに嶺岡の5牧を直営した。


     時代が移り明治になると、新政府は東京の窮民救済のため、牧の開墾を押し進めた。
     そして、入植順に初富、二和、三咲、豊四季、五香六実、七栄と
     縁起の良さそうな地名が付けられた。
     これから通り過ぎる『七栄』は、佐倉牧の一つ『内野牧』が開墾され名付けられたものだ。


     酒々井宿の中間辺り、島田家の敷地の角から街道は始まる。
     江戸時代、島田家は牧を管理した牧士の組頭を務めた家で、
     その広大な屋敷に野馬の御払場が置かれた。


     毎年の秋に捕らえられた野馬は、牧で直接払い下げられたが、
     残った馬は全て御払場に集められ再び払い下げが行われた。


     街道は、切り通しで北へ延びる国道51号の上を跨ぎ、
     静かな家並みを抜けて麻賀多神社前で国道296号に合流。
     坂を上ると、ほぼ国道のルートで北東へ向かう。


     JR成田線を越えれば、左手の崖下は新しい住宅地が広がっている。
     間もなく、右手に酒々井総合公園が姿を見せ、
     やがて、道端に残る道標とも出会えば、ほどなく隣の富里市内へと入る。


     ここが、かつての内野牧で、その中を街道は抜けていたわけだ。
     現在は七栄地区で、広がる畑に目をやると、北側の畑の奥に野馬土手跡が残っている。
     野馬が逃げ出さないよう巡らせた土手だが、
     開墾に際して畑の北側の土手は、防風林としてそのまま利用されたという。


     街道は東関道を越え、さらに国道409号を横断する。
     そして、商店が軒を連ねて賑わう七栄東交差点に着くと、
     直進する国道296号と分かれて左折する県道へ入る。


     しばらくは台地上を延びた街道は、大きなホテルを巻くようになだらかな下りに変わった。
     そして、右にカーブする県道から離れ、直進する小道で畑に入った。
     その先は、市立根木名小学校へぶつかり一旦消滅する。
     しかし、校庭の東側で再び出現し、急坂で一気に谷津田の際へと下った。


     すでに内野牧を抜けて根木名集落へ入ったようだ。
     長屋門が残る静かな家並みが続くこの集落は、佐倉藩領で宿場でもあった。


     根木名川を渡り県道に合流する。
     右手の崖、古木の根元に建つ道標を過ぎれば、成田市内に入ったようだ。
     そして坂道を上り切ると、再びかつての放牧場・取香牧の中を直進。


     やがて商店が集まる三里塚交差点へ出た。
     交差点を過ぎた左手奥には、地名の由来ともなった三里塚跡が、
     今も杉の木に守られるように残っている。


     三里塚は、江戸時代に街道の一里ごとに築いた塚の名残だという。
     さて何処から三里かというと、「多古町の日本寺から三里」という説と、
     「佐倉城から三里」という説もあり、定かではない。


     取香牧は、明治になっても開墾されずに畜産振興のための牧場として残された。
     その後、幾多の変遷を経て下総御料牧場となったが、成田空港の建設開港という激変が待っていた。


     街道は、三里塚跡のすぐ先で空港フェンスにぶつかり消滅する。


     日を改め、成田空港の東側から街道の名残を探しながら歩く。
     そこはすでに成田市ではなく芝山町。
     つまり下総から上総へと一時的に入ったわけだ。


     バス停『田辺野入口』からは左手に入る小道が街道で、
     台地の裾を回り加茂の集落へ着いた。
     ここはかつて宿場であったが、その面影は残ってはいない。


     家並みを抜け国道296号を横断し、すぐに左折し山道へと入る。
     これが街道で、枯れ葉が積もる小道は風情満点なのだが、すぐに行く手を藪に拒まれてしまった。


     仕方なく国道で坂道を上れば、下総国の多古町。
     台地上を緩やかにカーブしながら進むと、やがて急坂で一気に下り多古橋川沿いの水田地帯へ出た。


     行く手には低い山並みが連なり、その背後が多古町の中心部だ。
     国道わきの小さな鳥居が染井の一里塚跡で、ここから染井集落を抜け山へと分け入る。


     静かな切り通しの山道は、三輪神社前を通り過ぎて道標が建つ『までいどの三差路』に出た。
     左折は牧を通り佐原へ向かう道で、直進は深い切り通しを抜け家並みに面した池端に出る。


     街道は民家の間を折れ曲がる路地となり、仲町通りを辿り幾つもの集落を伝い佐原へ向かう。


     ここで、多古陣屋跡を訪ねた。


     江戸時代、多古は松平(久松)氏の多古藩1万2千石の城下町であった。
     町立多古第一小学校の敷地が陣屋跡で、房総では珍しく石垣が組まれ、その一部が残っている。 


イラストレーター さいとう・はるきの部屋のトップへ

inserted by FC2 system